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長篠城を救った鳥居強右衛門の「辞世の句」と「忠義」

史記から読む徳川家康㉑

 同月14日の長篠城は、すでに兵糧も底を尽き、いつ落城してもおかしくない状況だった。そこで信昌は救援を要請するため、家臣の鳥居強右衛門を城外へ派遣。強右衛門は敵中突破し、岡崎城へ走った(『当代記』)。

 

 翌15日、強右衛門は長篠城から見渡せる雁峰山(かんぼうやま/愛知県新城市)から烽火(ほうか)を上げて、無事に敵の目をかいくぐって城を抜け出たことを信昌らに伝えた。

 

 同日の午後には岡崎城に到着。強右衛門は信長の陣営で、信長本人から長篠城へ織田軍が出撃することを聞かされている(『三河物語』)。

 

 翌16日、一刻も早く援軍の来着を報告しようと城に引き返した強右衛門は、城を取り囲んでいた武田軍にあえなく捕縛される。勝頼は、助命と知行地(ちぎょうち)を与えることを条件に「信長は出陣しない。城を明け渡せ」と城兵に伝えるよう強要した上で、強右衛門を城の近くではりつけにした。

 

 強右衛門は「(武田軍に)信長は出陣していないと言え、そうすれば命を助け、知行地を与えるとは言われたが、信長は岡崎まで出陣している。信忠も出陣しており、家康・信康も野田城(愛知県新城市)で城の守りを固めている。3日のうちに運は開ける」と長篠城の城兵に伝えた。

 

 勝頼は「敵の強みをいうやつだ。早くとどめをさせ」(『三河物語』)と同日中に強右衛門を処刑した(『創業記考異』『武徳編年集成』)。

 

 強右衛門は、城を出る際にこんな辞世の句を残したらしい。

 

「わが君の命にかはる玉の緒をなにかいとひけん武士の道」(『三河後風土記』)

主君に代わってこの命を捨てることは、武士として何も惜しくはない)

 

 強右衛門の死を賭した行動に、諦めかけていた長篠城の兵らは奮い立ち、織田・徳川連合軍が到着するまでの間、城が持ちこたえる原動力となった。

 

 ちなみに、武田方だった奥平氏を味方に引き入れるため、家康が自身の娘との婚約の条件を提示したのは、約2年前となる1573(天正元)年821日のことである。これは信長の指示に従ったものだったという。

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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